今は上中下の三冊分本となっているが、わたしが買ったちょっと前の新潮社の文庫は上下巻である。
山本周五郎の代表作に相応しい、すごい作品である。伊達騒動という史実をベースにした作品である。
もともと純文学を志向していた山本らしく、人間の書き方はピカイチである。ただし、主人公の原田甲斐を除いて。一ノ関もちょっと悪代官っぷりが半端ないか。
小説の時間では10年ほどなのであるが、様々な人物を登場させ、物語を彩っている。
名作であることなどはいちいちわたしが説明するまでもないので、わたしが感じた違和感を書きたい。
ネタバレ有り。
主人公の原田甲斐。これが超人として描かれているのだ。しかし、史実の原田甲斐は極悪人ということになっている。山本はそこに目を付けて、原田甲斐は伊達家のために極悪人を演じている、という設定なのだ。
しかし、1年2年ならいざ知らず、10年間も演じるとなると、それは最早演技なのかどうかわからない。
甲斐は頭も良いスーパーマンのはずなのに、まったく手をこまねいて眺めているだけなのである。いや、こまねいている、とは表現していなく、未だ時至らず、という風に描いているのだが、読者にはこまねいているように見える。
そして、ラスト。最後は井伊直弼にやられてしまう。勧善懲悪でもなんでもなく、伊達家の為に身命を賭して、人生の全てをなげうったというのに、その最後は甲斐だけではなく、息子も孫も一族皆殺しである。
甲斐はそれでいいかもしれない。百歩譲って甲斐の子供たちも武門の道に殉じたと納得したかも知れない。しかし、読者は納得するだろうか。
史実だから仕方が無いと言えば仕方が無い。たしかに、甲斐は直弼の館で乱心に及び伊達家の重鎮たちを殺し自分も死ぬのである。
この史実がまずおかしい。だとすると、山本の解釈は充分に成り立つ。wikiと平行して読めば、山本のこの結末に納得は出来なくとも、そうする意外になかったということがよくわかる。
伊達騒動が訳のわからない事件であるならば、この小説もやはり、よくわからない小説である。