三島由紀夫の戯曲である。
本作品は三島由紀夫最後の対談で、古林氏が絶賛し、三島がそれに答えている。まずはその部分をご覧戴きたい。
三島由紀夫 最後の言葉 テープ起こし - 文学・文具・文化 趣味に死す!
古林:三島さんの作品でね、ひとはあんまり話題にしないのだけれども、ぼくは「若人よ蘇れ」がね、好きなんです。好きである理由は、三島さんの原体験とね、結びついた三島美学があそこにはある。他の作品にないようなものが出てきている。三島さんがあの作品で不用意に現した素顔かも知れないという気がしてるんですがね。
三島:ただね、あの芝居どころの一番のモチーフはね、恋人同士がこういうことでしたね。今までわたしたちはね、明後日どこどこの公園で会いましょうって言う時ね、それは分からなかった。どっちかが空襲で死ぬかも知れない。その公園がなくなっているかも知れなかった。それだから、わたしたちの恋愛って成就してたんだ。今からはね、戦争が済んだ。明後日、日比谷映画で会いましょう、ってちゃんと映画やってるの分かってる、もう恋愛はない、あそこですよ、書きたかったことは。
おそらく、上記の対談を読んでもよくわからないと思う。しかし、本作品を読めば、三島が言うところの意味するところがわかる。
そして、戦争を知らないわれわれは、戦争状態というものがどういうものなのかを、垣間見ることが出来る。戦争が悲劇で不幸なのは言うまでもないが、ならば、平和は悲劇であり不幸ではないのか、という命題にどのように答えるか。
もし、平和=幸福であるならば、戦争=不幸という公式も成り立つかも知れないが、平和が必ずしも幸福でないとするならば、戦争も必ずしも不幸ではないはずで、金閣寺でも感じたことであるが、三島の作品には戦争に対する憧憬というか追懐というか追慕といったような味わいがある。
もし、それを近くに求めるとしたら、あの3.11直後の、ほんの一瞬のことだったかも知れないが、連帯という感じの、被災者の死に心を寄せ悲しみ、皆が同じ考え方をしているという絶対の信頼のもとの、一種の安心感のようなものが、その類いのものなのかも知れない。