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三島由紀夫 金閣寺 を読んだ。感想、レビュー。

 

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)

 

 

三島由紀夫の名作である。平野啓一郎は中学の時に金閣寺を読んで文学に目覚めたとか。

 

三島の代表作として申し分ない作品である。そして、金閣寺放火という現実の事件とリンクさせて小説にしているというところが、また他の小説とは違うところかも知れない。

 

三島がこれを書き上げたのは1956年。戦後10年が経っているので、もはや、戦後ではないかも知れない。しかし、実際に金閣寺が燃やされたのは1950年。戦後5年で戦禍は未だ癒やされていない。その中での煩悶である。

 

三島は金閣の美を誇張するが、この青年の悩みは、復興する国、整ってくる国になじめない、簡単に言うと世間のレールが敷かれ始め、そのレールを上手く走ることが出来ない、そのもどかしさの表現ではなかろうか。

 

こういうテーマを読むと、ある種の人々にとっては、平和よりも戦乱の世の方が心の平穏を保てるのかも知れないと感じてしまう。赤木氏の希望は戦争もこの傍流のひとつであろう。 


金閣の美は不変のはずである。しかし、社会が変化し、おのれも変化する。すると、不変のはずである金閣の姿が歪んで見えてしまう。主人公はそのあり得ない現実のねじれに飲み込まれてしまった。

 

また、主人公が吃音なのであるが、これは実際の犯人が吃音だったということによる。わたし的には、主人公に吃音の設定はいらなかったのではないのかと思う。

 

この作品は実に現実に即している。大谷大学の学生であるということもそうであるし、出身が舞鶴、父親が禅僧で亡くなっている、などである。実際の犯人は1956年に死んでいる。母親はそれよりも早く自殺している。

 

本物の犯人は放火後カルモチンを飲んで自殺を図る。しかし、三島の主人公はカルモチンを谷底に捨てて、たばこを吸って「生きようと思った」で結ばれる。三島の主人公はどこまでも冷静であるし、理性的なのだ。やけくそで燃やしたり、死んだりは決してしない。理性的に、理論的に燃やし、そして、死ぬということもない。これはどういう意図であろうか。

 

わたしは小説的にこうせざるを得なかったのだと思う。純粋な狂人や馬鹿は小説では表現できない。荒唐無稽になってしまう。そこが小説の弱さかも知れない。三島の主人公は、どこまでも冷静で、理知的で、理論的に振る舞う。

 

金閣が燃えるということと自分が死ぬということに関連性が見いだせない。死んでしまっては理論的でもなく、理性的でもないのだ。金閣が燃えた時点で、主人公のやるべきことが終わった。そして、日常が戻ってきたのである。日常を取り戻し、死ぬ理由がなくなった。故に、「生きようと思った」だけなのである。

 

 

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