昨日の投稿の最後でこんなことを書いた。
「(AIやロボットでも)自らの機体やプログラムの存在の重要度を数値化して、それを他の機体の存在やプログラムの重要度の数値と比較して、他の機体やプログラムを温存する行動を起こせないだろうか。つまり、それがsympahtyでありempathyであるような気がするのであるが。」
これだけ読むと、人間も結局は相手の表情や言動を定量化して、sympathyやempathyを発動している、とも読める。
このブログはわたしの脳内ダダ漏れブログなので、その時はそんな風に思考していたのかもしれないが、あらためて、「人間的」を考えたときに、sympathyやempathyは副次的なもので、もっと本質的なものがあるような気がしてきた。
というのも、アダルトビデオなどを渉猟するに、陵辱ものやSMもの、鬼畜系、などなど、現実で行ってしまえば即お縄のような嗜好が多々散見される。
べつにこれは非現実だけの世界ではなく、松戸のPTA会長のように現実にやってしまうものもいて、sym、empathyは「他人の境遇に同情して他人を助ける能力」であると同時に、「他人の不幸に興奮して他人を害する能力」とも定義出来るわけで、とすると、他人の不幸度を定量化した(sym,empathyを発動した)ところで、行動は一定ではないどころか、180度の広がりを持っている。
だとすると、人間的なAIであればあるほど、松戸のPTA会長のようなAIもあり得るわけである。一つの人間的キーワードに倒錯した行動というのが数えられないかと思った次第。