sympathyとempathyは日本語では両方とも「共感」と訳してしまうが、この二つはもちろんちがう言葉である。
pathyは感情や苦痛や療法という意味の接尾語。
symは同様にとか共に、とかの意味。
emはその性質にする、させる、みたいな意味。
symは同様にとか共に、とかの意味。
emはその性質にする、させる、みたいな意味。
辞書では、sympathyよりもempathyの方が強力、と載っていた。他にも、瀬名氏の本にも書いてあるとおり、sympathyは同情で、empathyは相手の感情を理解して、援助の手をさしのべる、という違いがある。
さて、わたしが問題にしたいのは、sympathyなしのempathyはあり得るだろうか。という問いだ。相手を見て、微塵も可哀想だなどとは感じず、しかし、困っているだろうと推察して援助の手をさしのべる。それはあり得ることだろうか。
普通の人間は、困っているだろうと推察出来るのは、自らの立場に置き換えることが出来るからで有り、その時点でsympathyが発生してしまっている。
もし、お助けロボットを作るとするならば、相手の表情や仕草を数値化して、一定の数値を超えたら「May I help you?」と言わせるようなロボだ。
ただ、問題はこの場合個別具体的であり、包括的な社会問題に対し同情を寄せられるかという疑問が残る。そんなのを数値化するのは無理であろう。
とすると、自らの機体やプログラムの存在の重要度を数値化して、それを他の機体の存在やプログラムの重要度の数値と比較して、他の機体やプログラムを温存する行動を起こせないだろうか。つまり、それがsympahtyでありempathyであるような気がするのであるが。