人間誰でも躁鬱が訪れる。その振幅の大きさや、長さは人それぞれ違うだろう。ホルモンバランスだったり、日々の出来事だったり、理由も様々だろう。もっとも理由は後付けされたものがほとんどで、本当の理由は分からない。分かれば事前に処置できて躁鬱をコントロールできるだろうが、そんなすべを我々は知らない。人生における躁鬱の波があるように、社会にも、国家にも躁鬱の波があるのではないかと考えた。
というのも、この社会ではイデオロギーが優位に働く時期と、現実が優位に働く時期がある。例えば、第二次大戦前後はイデオロギー優位の時代だったのではなかろうか。ゆえに、1億層玉砕というイデオロギーが機能した。戦後まもなくも同様で、平和憲法を守るためならば喜んで我ら滅びん、という思想が横行した。山口瞳の、
「人を傷つけたり殺したりすることが厭で、そのために亡びてしまった国家があったということで充分ではないか」「もし、こういう(非武装の)国を攻め滅ぼそうとする国が存在するならば、そういう世界は生きるに価しないと考える」
端的にそれを表していて、三島の言う精神的な文化のために現実的文化は消滅してもかまわない、という思想は、戦後も受け継がれるのである。
しかし、時代は流れ、こういったイデオロギー的左翼思想は失われた。左翼は賃上げとか、権利とか、より実利的な路線を取るようになった。
それが近年、再びイデオロギー的な思考が強くなってきているように感じる。
わたしは最初、社会が豊かになると、現実的な思考となり、社会が貧しくなると、現実の中で達成できない幸福をイデオロギーに求めるのではないのかと考えたが、今の先進国にそれは当てはまらない。日本を含め、今の先進国は豊かである。これを豊かでないとしてしまったら、過去の人類の暮らしはいったい何だったのか。
豊かさ、貧しさ、希望、絶望、それにイデオロギー的と現実的が左右されないのであれば、それは、普段の生活の中で訪れる理由の分からない躁鬱にどこか似ているような気がするのだ。