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「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」を読んだ。

お題「読書感想文」

 

ふざけたタイトルであるが、中身は歴史哲学的な内容である。

1965年前後まで、キツネにだまされた、という話は日本全国でありふれていた。キツネだけではなく、タヌキ、ムジナ、などにも人々は騙されていた。それが、1965年前後を境に、ぴったりと、キツネに騙されるという話が消える。

たしかに、現代キツネに騙される人はいない。

今の人間と、昔の人間、何が違うのか? 内山は住んでる世界が違うという。村という共同体を失った人間は、同時にキツネに騙される能力を失った。

では、村の世界とはどういう世界か。知性では捕らえられない世界だという。その例えとして、発達史的な歴史観と、村の歴史観という対比を用いる。

発達史的歴史観とは、現在我々が習っているいわゆる歴史である。○○年にAがおきて、それにより○○年Bが発生し、○○年Cに至る。直線的な歴史である。直線的な歴史というのは見える歴史である。知性的な歴史である。  

それに対して、村の歴史は直線ではない。内山はそれを見えない歴史という。見えない歴史に時間軸はない。死者と生者が共存し、過去と未来が並列に存在する世界。春が過ぎても再び春が訪れる繰り返される世界、草が生え、枯れ、再び草が生える世界。そういう世界は発達史的な知性でとらえることは出来ない。見えない歴史の世界では、知性とは別の感覚が必要で、その感覚とは、死者が森に返り共に存在するという感覚である。

森が失われ、この感覚が失われ、見えない歴史が失われた。そして、キツネに騙される能力も失った。

現代人もまだこの感覚を完全に失ってはいないと思う。例えば、夜中に墓に行くと何となく怖いし、墓につばを吐くと罰が当たるような気がする。我々はまだ死者に対して非科学的な思いを抱いている。我々がこの感覚を完全に失ったとき、そこにはまた別の世界が広がるのかもしれない。