わざわざ新作を大枚はたいて借りたわけであるが、ガッカリの作品だった。小説は単行本で買った。小説は傑作である。だからこそ、相当の期待を込めて観ただけに、ガッカリ具合も半端ないのである。
まず、小説とはストーリーがかなり異なる。半分以上小説とはエピソードが違う。小説はもっと遙かに政治的な作品であるのに対し、映画は単に変なヒトラーが復活しただけ。映画でも小説でもヒトラーはドイツ国民の支持を受けるのだが、映画ではその理由が判然としない。小説版は説得力のあるエピソードがいくつも挿入されている。エンディングも全然違う。
小説版のおもしろさがどこにあるかと言えば、ヒトラーの一人称で語られているところである。そこが滑稽であり、共感すべきところなのだが、映画版ではザヴァツキ視点でほとんど描かれている。ザヴァツキの視点から見てしまうと、ヒトラーがただの変人にしか見えない。
トランプだって、トランプの一人称から観ればおそらく滑稽だろうが、ニュースを通すと変人になってしまう。
映画版で印象に残ったのは、ヒトラーは人々を扇動していると批難される。そのとき、ヒトラーの返す言葉が、「わたしは扇動などしていない。人々が望むことを言っているだけだ」と。そっくりそのままトランプにも当てはまる。
ドイツ国民はヒトラーに扇動されたわけではない。ヒトラーを望んだのだ。大日本帝国も軍部が人々を扇動したわけではなく、人々が望んだのだ。ただ、戦後それでは問題があるので、ヒトラーのせいにし、軍部のせいにしているだけだ。
扇動とはゼロから人々を動かすのではなく、人々の心に燻っている火種を燃え立たせることなのだろう。だとすれば、人間が存在する限り、今後も扇動は起き続ける。扇動は「する」「される」と思われているが、本当は扇動「する」側も「されて」いて、「される」側も「して」いるのである。扇動された民衆は被害者のように感ぜられるが、扇動された民衆もまた主役なのだ。この映画を観てそんなことを感じた。