「金が全てではない」「世の中には金で買えないものもある」などの台詞は、いかにこの世が金に支配されていて、人々が金を崇拝しているかの証左であろう。
確かに、世の中には金で買えないものもあるが、ほとんどのものは金で買える。金は生命であり、よき人生を送る必須条件だ。
寿命と同じように金にも限りがある。時間が尊いのは命に限りがあるからで、金が貴重なのも財産に限りがあるからだ。Time is moneyとはよく言ったものである。
そういう世の中において、買い物とは改めて考えると深淵なものだ。
買い物には喜びが伴うものと、そうでもないものがある。たとえば、車にガソリンを入れるのは買い物であるが、給油に喜びを見出す人間はいないだろう。これは金額の多寡ではない。
買い物の醍醐味は必要のないものを買うことである。20万円の靴が必要かと問われれば、そんなものは全く必要ないわけで、2万円も出せば問題のない靴が買える。しかし、あえて靴に20万出す。この感覚が買い物の喜びだろう。喜びは浪費であり浪費は快楽であり、快楽は他人から見たら悪徳に映るので浪費は非難される。
悪徳は魅力である。悪徳が人に嫌われるのは優越感を醸し出すからであり、醸し出る優越感は人々に劣等感として受け止められる。
さて、そんな魅力的で悪徳な品を商う店の店員はスーパーの店員とは異なり、ただ金の受け渡しをするだけではない。客は必要ないものを買い、店は必要ないものを売る。必要ないものの売買は喜びがなければだめで、優秀な店員は客を喜ばせるすべをよく知っている。
銀座には良い靴屋がたくさんある。銀座松屋が男市で靴を扱ったのは意外だった。その意外性にやられて、わたしは靴がたまらなく欲しくなってしまった。男市ではスラックスを一本買って、その足で靴屋を見て回る羽目になった。
さて、喜びとはなんであろうか? 喜びとは克服であると思う。つらいことの克服が喜びである。葛藤の克服が喜びである。意中の人に想いを伝えるのはある種の試練であり、色よい返事は克服と考えられる。故に喜びがあるのだろう。
では、買い物の喜びはなにを克服しているのであろうか。すなわち出費である。出費には痛みと苦悩が伴う。そして、あるものに出費するということは、所有していた可能性を失う行為に他ならない。
買い物の喜びは、こういう複雑な要因を乗り越え、それでも喜びが伴うものでなければならない。
結論を言う。10万の靴を買った。さすがに靴に20万は出せない。
それどこ大賞「買い物」