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槇原の「どんなときも。」は装いと精神の関係性を謳ったものである

槇原敬之の「どんなときも。」には、以下のような一節がある。

あの泥だらけのスニーカーじゃ追い越せないのは、電車でも時間でもなく、ぼくかも知れないけど

ダンディを志すものとして、泥だらけのスニーカーは論外である。要するに、この一節は靴の大切さを謳ったものである。なぜなら、仮に百メートルを8秒で走ったとして、時速に換算すれば45キロでしかない。人間の限界である。新幹線は時速300キロを超える。スニーカーの泥を落とした程度で電車を追い越せないこと、これは自明である。

時間を追い越すのはさらに困難で、アメリカの科学者であるアインシュタイン博士の相対性理論によれば、それは光の速さを超えなければならない。これもスニーカーの泥を落とす程度では不可能である。

しかし、自分自身ならば追い越すことが可能な場合がある。いずれもライセンスものではない、靴に20万、スーツに30万、ネクタイに3万、シャツに4万をかけて身なりを整える。ライセンスものとは西欧のブランドの名を付けるために払う奇妙な支出である。

この身なりに中身を追いつかせるには相当にハードルが高いことがわかる。身なりが自分自身を追い越してしまうわかりやすい例だ。まず、服装に自分を越えさせ、それに追いつくために中身を変えていくこと。これは逆説的かも知れないが、すべからく、ぼくがぼくらしくあるため、の早道なのである。

 

 

どんなときも。

どんなときも。