文学・文具・文化 趣味に死す!

小説家 星香典(ほしよしのり)のブログ。小説、映画、ファッション(メンズフォーマル)、政治、人間関係、食い物、酒、文具、ただの趣味をひたすら毎日更新し続けるだけのブログ。 ツイッター https://twitter.com/yoshinori_hoshi  youtubeチャンネル https://www.youtube.com/channel/UC0YrQb9OiXM_MblnSYqRHUw

日本に合理性以上のなにものかが存在するか

昨日の話、イスラム教徒は礼拝の時間というのが存在して、それを犯すことが出来ない。もちろん、人が決めたことであろうが、一応神が決めたという設定になっている。そして、その設定をみなが了解している。

最近の日本は正月一日でも営業している店舗が多い。日本では「は? 神? バカじゃね」で終わってしまう。個人的に崇拝している神的なものがあったとしても、それが日本社会に普遍的に存在しているようなものは見当たらない。唯一思い当たるのは拝金教くらいか。

「あなたは車を運転しています。信号は赤でした。なぜ赤信号を無視してはいけないのでしょうか?」

日本人の多くは「警察に捕まるから」と答えるらしい。次に多いのは「怪我をしたくないから」。そして最後が「他人を傷つけないため」という順番だという。

「警察に捕まるから」という理由で法を守るとするならば、「警察に捕まらない」となれば法を守る必要がなくなる。法に引っかからなければなにをしてもいいという発想はここからくる。つまり、儲けることが至上であり、至上のためには手段を選ばず。規制緩和が正しいのはより儲けるためであり、儲けることを妨害する規制は不正となる。

神という設定がなくとも、昔の日本には道徳があったという。教育勅語があった。山県有朋キリスト教をモデルにして天皇の神格化を図ったという。

日本はもう一度設定の重要性を見直した方がいい。無設定と言うことはルールがないということだ。ルールは支配だ。支配がないということは、実は相当アナーキーな国なんではないか日本は。