マルクス・アウレリウスの自省録は好きな本だ。
この本は人生の虚しさ&尊さのようなことが書かれている。
虚しさとは、時間という永遠と、人生という有限を対比させ、無限の中の有限は所詮消滅して忘れ去られる存在だからである。
どれほどの財をなそうとも、どれほどの名声を得ようとも、そのようなものは、跡形もなく、人々の記憶の中からすら消えてなくなる。故に富や名声を求めるのは虚しいことである。
今も昔も変わらない。アウレリウスの時代から人々は名声を求めていた。だからこそ、アウレリウスは繰り返し魂の消滅を訴えている。
どれほどの名声をなしたとしても、百年後、一万年後、にはそのようなものは残らないだろう。アウレリウスは言う。「仮に残ったとしてもそれがなんだというのだ」速やかに死にゆく人間がそれを次々に渡すだけにすぎない。
後の世の名声を欲すること自体に、本質的な意味はない。
では、アウレリウスはなにを尊しとなしたか。それは、今この瞬間である。今この瞬間、幸福であること、正しくあること、人間にとって大切なのは今この瞬間以外にあり得ない。過去はすでに生きられたもの、未来は未知なるもの。
人間が所有するのは「今」だけだ。過去も未来も所有することは出来ない。故に、どれだけ短命な人間も、百年長生きするものも、失うものは同じである。所有していないものは失えない。
不平や不満は一体なにに向けて発せられているのだろうか。過去であろうか? 未来であろうか? 過去や未来は概念である。概念に対して不平不満を述べることに、どれほどの意味があるのであろうか。人は間もなく死んでしまうというのに。