文学・文具・文化 趣味に死す!

小説家 星香典(ほしよしのり)のブログ。小説、映画、ファッション(メンズフォーマル)、政治、人間関係、食い物、酒、文具、ただの趣味をひたすら毎日更新し続けるだけのブログ。 ツイッター https://twitter.com/yoshinori_hoshi  youtubeチャンネル https://www.youtube.com/channel/UC0YrQb9OiXM_MblnSYqRHUw

死後の名声 過去 未来 現在

マルクス・アウレリウスの自省録は好きな本だ。

 

この本は人生の虚しさ&尊さのようなことが書かれている。

 

虚しさとは、時間という永遠と、人生という有限を対比させ、無限の中の有限は所詮消滅して忘れ去られる存在だからである。

 

どれほどの財をなそうとも、どれほどの名声を得ようとも、そのようなものは、跡形もなく、人々の記憶の中からすら消えてなくなる。故に富や名声を求めるのは虚しいことである。

 

今も昔も変わらない。アウレリウスの時代から人々は名声を求めていた。だからこそ、アウレリウスは繰り返し魂の消滅を訴えている。

 

どれほどの名声をなしたとしても、百年後、一万年後、にはそのようなものは残らないだろう。アウレリウスは言う。「仮に残ったとしてもそれがなんだというのだ」速やかに死にゆく人間がそれを次々に渡すだけにすぎない。

 

後の世の名声を欲すること自体に、本質的な意味はない。

 

では、アウレリウスはなにを尊しとなしたか。それは、今この瞬間である。今この瞬間、幸福であること、正しくあること、人間にとって大切なのは今この瞬間以外にあり得ない。過去はすでに生きられたもの、未来は未知なるもの。

 

人間が所有するのは「今」だけだ。過去も未来も所有することは出来ない。故に、どれだけ短命な人間も、百年長生きするものも、失うものは同じである。所有していないものは失えない。

 

不平や不満は一体なにに向けて発せられているのだろうか。過去であろうか? 未来であろうか? 過去や未来は概念である。概念に対して不平不満を述べることに、どれほどの意味があるのであろうか。人は間もなく死んでしまうというのに。