文学・文具・文化 趣味に死す!

小説家 星香典(ほしよしのり)のブログ。小説、映画、ファッション(メンズフォーマル)、政治、人間関係、食い物、酒、文具、ただの趣味をひたすら毎日更新し続けるだけのブログ。 ツイッター https://twitter.com/yoshinori_hoshi  youtubeチャンネル https://www.youtube.com/channel/UC0YrQb9OiXM_MblnSYqRHUw

服装の自由について

日本という国は幸か不幸か、常夏の島でもなければ、大自然に包まれて生活を営んでいるわけでもない。文明という奇妙な、人が作り上げたルールが、あたかも物理法則のように機能する社会である。そうした社会において、人間は人間に対して着ることを義務づけた。我々は、着ることに無関心であったとしても、着ることと無関係ではいられないということだ。

もちろん、無関係でいられないもの全てに感心を持っていたら体がもたない。だがせめて、無関係ではない、この現実を認識する。そうするだけで、服装と社会の関係が見えてくる。服装は自由に選んでいるようで、実はかなり自由がない。どういうことか。例えば、今日仕事の面接に出かけなければならないとする。なにを着るか。破れたジーパンと縒れたTシャツは除外される。おそらくスーツがチョイスされる。スーツの中のデザイナースーツは除外される。すると、残るは紺のストライプかグレーの無地だ。二種類しかない。つまり、この二種類がジャストサイズで、上質であり、且つクラシックであれば、事足りるわけである。

この国ではある種の儀式を除いて、服にかかる制約は一つだけだ。つまり、「スーツであること」である。スーツであること以外、例えば、家にいる時や、遊びに行く時などは好きな服を着ればいいのである。これは無関心でも大丈夫だ。いや、むしろ無関心であった方が、他人が顔を顰めるような格好をしないですむかも知れない。ユニクロやイオンで適当に選べばいい。

問題はスーツである。わたしは自分の買い物、オーダー、また友人のオーダーなどに何度となく立ち会った経験から、実にいい加減な店員が多いことを知っている。もう少し真面目に計れば絶対良いものが出来るのに、それよりも数をこなすことの方が大切らしい。それと、大きめに作ろうとするというのは本当だ。きつい分には客は文句を言うが、大きい分にはあまり文句を言わないのだろう。

先日も友人の出来上がったスーツが明らかにぶかぶかであった。袖も長い。そのことを友人が店員に伝えると、怪訝そうな顔をして友人の服を摘み、「許容範囲ですよ」と言った。許容範囲。便利な言葉である。友人が「ほら、胸がこんなに開いちゃうんですよ」と主張すると、「いや、悪くないですよ」と言う。友人がすかさず、「悪くないということは良くもないということですか?」と言ったら、さすがに慌てて否定して、皺の寄り方や生地の耐久性などの説明を始めた。今更そんなご託を並べられても疑念しか残らない。

吊し服も明らかにオーバーサイズを普通に進めてくる。かく言うわたしも、その昔、楽な服を求めて買ったスーツは、今着てみるとびっくりするくらいブカブカで新中学一年生の制服のようだ。

では、きつめの服を買えば良いかといえばそんなことはなく、若者に人気のパッツンパッツンのスーツもまた無様である。

そうすると、服に対するリテラシーとはTPOをわきまえることと、自分にとってのジャストサイズをわきまえることではなかろうかという結論に達するのである。