ダンディズムとお洒落は同一視される傾向がある。同一視されないまでも、お洒落はダンディズムの一部だと思われている。実際は、ダンディズムとお洒落は間逆である。ダンディズムとお洒落には一切の関係がない。
お洒落は所詮世間への迎合である。悪く言えば自分をよく見せるための諂いである。ダンディズムは世間を超越しなければならない。ダンディズムを実践しているものを見て、もしお洒落に感じたとすれば、それは単なる偶然か、もしくは、その実践が失敗しているかのどちらかである。
ダンディズムとはもちろん外見を伴うものであるが、その外見にはある精神が必要である。ヤクザものは一般人に比べればダンディズムに親近性があるかもしれない。ただ、犯罪者は駄目で、とくに、利得を目的とした者はどれほど着飾っても精神がダンディズムではない。
では、死を厭わぬイスラム系のテロリストはダンディズムか。あまりに思想信条が過剰なものはダンディズムとは言えない。どこかニヒルな、シニカルが要求されるのがダンディズムである。
と考えると、利得的、営利的、確信的、合理的なもの。これらはダンディズムから離れているものと思われる。ダンディズムとは非営利であり、非合理なものである。
非合理とは、それをやっても儲からないし、地位も名誉も利得も付いてこないし、主義主張を見せつけるものとは無縁でなければならない。世間になにも求めないし、世間からなにも得ようとしないし、世間になにも訴えようとしないもの。そんな存在はと問われて思いつくのは乞食である。
乞食はダンディズムか? あり得ない。
では、やはりダンディは世間を意識しないフリをしているだけだろうか。非合理を装いつつ合理的計算を働かせる存在でしかないのであろうか。
武士はなにゆえに武士なのか。精神でも帯刀でもなく、武家という決められた階級に過ぎないのであろうか。日本人とはなにか。日本国籍を有するものである。これは分かりやすい解であると同時に、だれもそんな回答に興味を示さない。