Yoshinori Hoshi Official blog

小説家 星香典(ほしよしのり)のブログです。映画、ファッション(メンズフォーマル)、政治、人間関係など、思うところをほぼ毎日更新してます。

ポモドーロ・テクニックなる仕事術

世に仕事術なるものは溢れている。それだけ、みんな仕事に重きを置いている、もしくは、仕事なんかまじめにしたくないので、仕事術なるもので効率を追い求めているとも言える。本当に楽しいことなら、変な術を使って手短に終わらせようなんて考えないだろう。

わたしは様々な仕事術なるものに手を出してきたが、どれも長続きしない。おそらく今回も長続きしないだろう。

最近試しているのはポモドーロ・テクニックなる仕事術である。どういうものかというと、25分集中して仕事をして、5分休む。これを繰り返す。4回ほど繰り返したら15分ほど休み、同じ事を繰り返すだけ。じつにシンプルである。

やってみてわかったことは、25分は意外に短い。短いので集中せざるを得ない。集中するから仕事の効率が上がる、そんなようなところであろうか。

ただ、これは面倒で嫌なタスクにしか通用しない。25分というのは集中力が持続する時間らしい。でも、人間、寝食を忘れるような好きなことなら、集中力はもっと遙かに長く続く。わざわざ25分にする必要はないし、休憩もいらない。

面倒なタスクを抱えていたら、この方法は有用かも知れない。試す価値はあると思う。

 

 

アジャイルな時間管理術 ポモドーロテクニック入門

アジャイルな時間管理術 ポモドーロテクニック入門

 

 

うまい珈琲がお湯でイギリス人と雪原でラジコンを飛ばす

うまい珈琲が飲みたいね。ということで、四国に引っ越すことにした。
四国の住宅街にある、自宅を改築したような珈琲屋は気さくな女主人がいて、確かに美味い珈琲を飲めた。

あまり、珈琲屋に長居しては、とわたしはテイクアウトでもう一杯頼んで外に出た。テイクアウトした珈琲は確かにうまかった。でも、珈琲の味がしない。ふたを取ってみると、それはただのお湯だった。

交差点の隅のベンチに腰掛けていると、先ほどの女店主がやってきて、
「ごめんね、うちの珈琲高くて。でも、田舎じゃこのくらいじゃないとやってけないんだ」
と言い訳のようなことを言う。
「いや、別に高くないですよ。普通かな。東京はぜんぜん高い珈琲がごろごろしている」
「ううん。でもうちの珈琲は高いんだよ。ごめんね」

そう言って女店主は去る。

別に高くない。一杯800円だ。豆だって200g880円。安くはないが高くない。それよりも、わたしは、今飲んでいるこれがお湯だと伝えるのを忘れた。お湯が800円は高いかもしれない。でも、このお湯は文句なくうまい。

お湯がうまいとなると、なんのために珈琲のうまい町に越してきたのか。
帰りたくなって、空港行きのバス停に行くと、向かいのゴミ捨て場には、わたしの引っ越しで出たゴミが山積みしてあった。生ものは特に入っていないのに、カラスが袋をつついて中身を次ぎ次ぎ出していく。

「あれ、あんたのゴミだろ? 片付けろよ」

そう言われて、しぶしぶ散らかったゴミを集めていると、バスを待っていた人たちがみんな手伝ってくれた。四国の人は優しい。

空港にはガラスの高い建物があった。びっくりするくらい薄っぺらい建物。面白いから、その建物の中に入ってた。薄いガラスのビルは階段の両脇に畳の部屋があったり、チケット売り場があったり、その薄さをめいっぱい活用していた。

階段に座って一休みしていたら、イギリス人が、「これから北欧にラジコン飛行機を飛ばしに行くけれども一緒に行かない」と誘ってきた。

北欧の雪原は広かった。イギリス人は優雅に飛行機を飛ばしていた。雪原に立つ一本の木を数周すると、着陸させた。
「おれにもやらせてよ」
「いいよ。でも、もう一回飛ばしてから」
イギリス人は飛行機をあごで指す。投げろという意味だ。地面が雪なので滑走できない。手で投げて飛ばすしかない。

わたしは全力で飛行機を投げた。
「バカ、どこ投げてる!?」
イギリス人が焦ったような声を出す。
わたしの投げた飛行機は急上昇して、電線に絡まった。そして、火花を散らした。

「なんてことしてくれる」
「ごめん」
「これはもう罰ゲームだ」

ということになり、イギリスに帰ると、ツムツムの靴下タンスの中に入るだの、分けの分からない罰ゲームをする羽目に。

 

といったろこで目が覚める。

だいたいこういう支離滅裂な夢が多い。文字にすると分けが分からない話だけれど、夢で見ているときは、はらはらどきどき、エキサイティングなのである。

夢について投稿しているので、自分の夢を書いてみた。

yoshinori-hoshi.hatenadiary.jp

こうやって書き出してみると、現実と夢は別物といってみたものの、リンクしているところも多い。例えば珈琲などはわたしが現実で強く興味を持っているものである。ラジコン飛行機はやったことはないけれども、なんとなくやってみたい気もする。

楽琴書以消憂 ギターが好きだ。

お題「演奏できる楽器」

 

わたしはその昔、音楽家を目指していたこともあり、弾ける楽器はかなり多い。物心つく前からピアノを習わされていたのは、後々にとって仕事上の役にはからきし役に立たなかったけれども、趣味で楽器を弾くのには役に立っている。

 

一番好きな楽器はギターである。ギターは良い。ソロギターも楽しいし、みんなで歌うのもよし。エレキギタークラシックギターアコースティックギター、ジャズギター。ギターが弾ければ様々なジャンルを楽しむことが出来る。

 

ただ、様々な種類のジャンルが出来るために、いろいろなギターが欲しくなるのには困った物である。同じアコギでも、この曲はギブソンかな。このアーティストやるならマーチンだ、みたいに、際限がない。

 

「楽琴書以消憂」というように、気晴らしにちょうど良い。生まれ変わっても、ギターはまたやりたいと思う。

久しぶりに舞城を読んだ

舞城王太郎はかなり好きな作家で、昔からよく読んでいたが、ここ5,6年、全然読んでなく、この前、図書館をぶらついていたら急に目にとまりキミトピアを借りてきた。

好き好き大好き超愛してる。が代表作だと思うが、これはついて行けなかった。熊の場所とかめちゃくちゃ好きで、たぶん文庫で持ってるはずなので読み返したい気分。

キミトピアには7つの短編が収められている。まだ「やさしナリン」しか読んでいない。でも、この作家のパワーを思い出した。返却期限的に全部は読めないかもしれないけど、あと数編は読んでみたい気分である。

 

 

キミトピア

キミトピア

 

 

人はなぜ夢を見るのか?

人はなぜ夢を見るか。海馬が記憶を定着させる課程で大脳新皮質が……、などという回答は、人はなぜ生きるのか、という問いに、心臓が動いているから、という空しい回答と同じだ。なぜ食事をするか? 栄養を取るためというのは空しい回答だ。食事は喜びである。同様に、夢もわたしにとっては一日の楽しみなのである。

とくに、最近面白い夢を見ることが多い。夢は現実で叶えられぬことを睡眠中に体験するのであろうか? 欲望の発露なのであろうか? 違うと思う。

古来より、夢は神のお告げと言われている。わたしはあまり神は信じていないので神のお告げとは思わない。では、無意識の警告なのだろうか? 未来の知らせか? 現実の疑似体験か?

これらの考えもわたしは採用しない。なぜなら、これらは現実を主として、夢を従として扱っている。夢は現実の従属物ではない。無理矢理分類するならば、旅行とか祭りとか、そういった非日常と夢は近いと思う。

いや、旅行や祭りよりも、もっと独立した存在である。だからわたしは、夢を現実とは別に楽しんでいる。夢の意味を調べたりするのももうやめた。一日の最後にとても楽しいことが待っているのは、幸せなことである。

ちなみに、昨晩は高いところから滑り落ちる夢を見た。怪我をした感覚はないのであるが、トラウザーズの膝から下が血まみれになってしまった。その時着ていたはお気に入りのREDAのスーツで、ぐっちょちと血が染み込んでいるのを見て、「これ落ちるかな?」とそればかり心配していた。

酒で晴らした憂さは、後から倍返し? はわたしだけか?

お題「これって私だけ?」

 

酒は憂さ晴らしにいいかもしれないが、その分後からつけが回るような気がする。

というのも、ここ数日晩酌をしてなかったら、なんとなく気分が晴れやかになった。日常の苦悩が減ったわけではない。問題は相変わらず山積している。

栄養ドリンクを飲んで元気を回復すると、あとからどっと疲れが押し寄せる、といったような話を聞いたことはないだろうか?

酒もそれと同じで、飲んでいるときは確かに憂さが晴れるのであるが、その憂鬱は消えてなくなったわけではなく、いっとき見えなくなっただけで、酔いが醒めると同時に再び現れる。それも、ちょっと力を増して。

その原因は酒を飲まないで寝た方が眠りの質が良いからだと思う。酒を飲んで寝ると、夢も支離滅裂になることが多い。何を見たか忘れてしまうことも多い。酒は確かに美味い。でも、毎日は飲まない方が良いかもしれない。

ところで、最近夢を見るのが楽しみになっている。その話は次回したい。

 

カラオケハラスメント 強いる文化について

今週のお題「カラオケの十八番」

 

カラオケの18番。何ともグロテスクなお題である。

このブログで書いたか覚えていないが、わたしはカラオケが大嫌いである。そして、カラオケが理解不能である。自分が歌うのも論外。他人の歌を聴くのも勘弁である。

歌が始まると、話も出来なくなるし、酒も不味くなる。そして調子っ外れの歌が耳に侵入してくる。誰が何のために考えた文化か、全くわからない。

先ほど、もしやと「カラハラ」とググったら、やっぱりあった。宴会、接待等はカラオケを歌うことを強要されるのがカラハラだ。

そもそも、カラオケとはそんなに一般的な文化なのだろうか。カラオケサークルや、カラオケ好きの人たちがカラオケボックス等で歌うのにケチを付けるつもりなど毛頭ない。その他の趣味と同様で、勝手にやればいい。

宴会や接待で、アルコールが嫌いな人間にアルコールを強いればアルハラになるのと同様、カラオケを強いればカラハラになるだろう。日本ではこの強いる文化というのがあるのではないだろうか。日本は一応集団主義の社会と言うことになっている。集団と同様の行動をするように、圧力がかかるのかもしれない。

今は給食でも完食を強いることはないという。昔は牛乳ハラスメントが横行していたが、教育委員会の指導の下、近年では下火とのこと。ただ、牛乳ハラスメントは、生徒が憎くて、または嫌がらせが主目的で行われていたことではない。教師の多くは、生徒によかれと思って牛乳を強いていたはずである。

ラインやフェイスブックも一種の強いる文化が介入しているかもしれない。
「え、フェイスブックやってないの? 大丈夫? それで平気?」みたいな感じで、フェイスブックをするように圧力をかけたりかけられたりしたことはないだろうか?

話を戻すが、わたし自身がカラハラに敢然と立ち向かっているかと言えばそんなことはなく、ちゃんと数曲用意しており、参加者の年齢層に応じて歌い分けている。ここ十年くらい同じ曲しか歌ってないので、歌詞を見ないで歌える。わたしは極めて世間に迎合的な人間である。作家としていかがなものかと、自分でも悩ましく思っている。

確かに、接待に臨席させている部下が頑なに歌唱を拒否したら、もし自分が上司だった場合困るだろうし、会場を作ってくれている人の苦労を思うと、協力してあげたくもなる。

カラオケ文化は時期になくなる。というのも、わたしのまわりでは50代以上が主にカラオケをやりたがる。わたしと同年代のものたちとの宴会では、カラオケボックス等を使うことが多々あるが、カラオケを歌ったためしがない。

社会学的に考えると、共通の歌がなくなったというのもあるのかもしれない。昔の人たちは、他の人が歌う歌を知っている。つまり、歌い手はひとりで歌っているわけではなく、歌を会場と共有して歌っているのだ。だから盛り上がる。共通の歌という文化が再び訪れない限り、宴会でのカラオケは衰退の一途をたどることだろう。