わたしは衒学家である。しかも、人前で話さなければならず、そういう場合は謙遜してても場が白けるので遺憾なく衒学っぷりを披露する。有名な学者の名前を羅列すると箔が付く。ジョン・ロールズ、アンソニー・ディケンズ、ミシェル・フーコー、アリストテレス、三島由紀夫、柄谷行人、等々。古今東西引用する。もちろん、フーコーを読んだことなどない。孫引き玄孫引きである。
普通の人は真に受けないが、たまに真に受けてか、それともからかい半分か、目を輝かせて質問してくる人もいる。だいたい、そういう人も衒学家だ。色々な学者名や書籍名を述べ、
「ところで、最近はどのようなご本をお読みですか?」
と聞いてくる。
この質問は結構困る。古典や名著と言われているものなど、例え読んだとしても必要な部分だけか斜め読みだ。
かといって、正直に「落合正勝を読んでいます。その流れでハーディ・エイミスも読みましたけどね」などと答えたら、そこで会話は終了するだろう。
だが、ここ一年ほど、真面目に耽読した作家は落合正勝だけだ。
そこで、改めて落合正勝のなにが好きなのかを考えてみた。こちらも、服装に対する造詣が深まるにつれて、氏の主張を鵜呑みにはなかなか出来なくなってきた。しかし、好きなのだ。とくに今読んでいる「男の服装、お洒落の基本」は白眉だ。
落合正勝の本は全部好きかと問われれば否である。中には冗長なだけでちっとも面白くないものもある。
では、面白いと感じるのはどこか。文体である。硬質で断定的な文体こそ、エレガントでありダンディズムに通じると分かった。
例えば、ズボンは島村、シャツはgu、しかも両方オーバーサイズ。足下はクロックスの偽物で決めている紳士が、エレガンスとダンディズムについて語ったとしたら、その中身を吟味する前に噴飯してしまう。文体も然りで、
「やっぱ一番クラッシックな靴って、黒くてなんか鈍めに光っちゃったりしてる、つま先んとこに棒が入ってるストレートチップってやつかな」
なんて文体はちっともエレガントでもなければダンディでもない。
ダンディズムとは多かれ少なかれそういうところがある。我々は本質という単語に、形而上のなにか、目に見えないなにかを要求しがちである。しかし、エレガンス、ダンディズムは本質の大部分が視覚化されているのだ。
そして、エレガンス、ダンディズムを活字にするならば、文体こそ視覚の部分を担っている。お洒落に関する本は多い。だが、どれも落合氏ほどの説得力がないの何故か? エレガンス、ダンディズムをイメージできる文体をもっとも上手く書いたのが、わたしは落合正勝ではなかろうかと思っている。