文学・文具・文化 趣味に死す!

小説家 星香典(ほしよしのり)のブログ。小説、映画、ファッション(メンズフォーマル)、政治、人間関係、食い物、酒、文具、ただの趣味をひたすら毎日更新し続けるだけのブログ。 ツイッター https://twitter.com/yoshinori_hoshi  youtubeチャンネル https://www.youtube.com/channel/UC0YrQb9OiXM_MblnSYqRHUw

落合正勝礼賛 ダンディズムの本質は外見や文体である

わたしは衒学家である。しかも、人前で話さなければならず、そういう場合は謙遜してても場が白けるので遺憾なく衒学っぷりを披露する。有名な学者の名前を羅列すると箔が付く。ジョン・ロールズ、アンソニーディケンズミシェル・フーコーアリストテレス三島由紀夫柄谷行人、等々。古今東西引用する。もちろん、フーコーを読んだことなどない。孫引き玄孫引きである。

普通の人は真に受けないが、たまに真に受けてか、それともからかい半分か、目を輝かせて質問してくる人もいる。だいたい、そういう人も衒学家だ。色々な学者名や書籍名を述べ、

「ところで、最近はどのようなご本をお読みですか?」

と聞いてくる。
この質問は結構困る。古典や名著と言われているものなど、例え読んだとしても必要な部分だけか斜め読みだ。

かといって、正直に「落合正勝を読んでいます。その流れでハーディ・エイミスも読みましたけどね」などと答えたら、そこで会話は終了するだろう。

だが、ここ一年ほど、真面目に耽読した作家は落合正勝だけだ。

そこで、改めて落合正勝のなにが好きなのかを考えてみた。こちらも、服装に対する造詣が深まるにつれて、氏の主張を鵜呑みにはなかなか出来なくなってきた。しかし、好きなのだ。とくに今読んでいる「男の服装、お洒落の基本」は白眉だ。

落合正勝の本は全部好きかと問われれば否である。中には冗長なだけでちっとも面白くないものもある。

では、面白いと感じるのはどこか。文体である。硬質で断定的な文体こそ、エレガントでありダンディズムに通じると分かった。

例えば、ズボンは島村、シャツはgu、しかも両方オーバーサイズ。足下はクロックスの偽物で決めている紳士が、エレガンスとダンディズムについて語ったとしたら、その中身を吟味する前に噴飯してしまう。文体も然りで、

「やっぱ一番クラッシックな靴って、黒くてなんか鈍めに光っちゃったりしてる、つま先んとこに棒が入ってるストレートチップってやつかな」

なんて文体はちっともエレガントでもなければダンディでもない。

ダンディズムとは多かれ少なかれそういうところがある。我々は本質という単語に、形而上のなにか、目に見えないなにかを要求しがちである。しかし、エレガンス、ダンディズムは本質の大部分が視覚化されているのだ。

そして、エレガンス、ダンディズムを活字にするならば、文体こそ視覚の部分を担っている。お洒落に関する本は多い。だが、どれも落合氏ほどの説得力がないの何故か? エレガンス、ダンディズムをイメージできる文体をもっとも上手く書いたのが、わたしは落合正勝ではなかろうかと思っている。

 

 

男の服装 お洒落の基本

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amazonからも発売! かぐや姫をすきになったら

拙著新作、「かぐや姫を好きになったら」amazonからも発売されました。

電子書籍のプラットフォームは星の数ほどありますが、やっぱりamazonが一番使いやすいかな。

というわけで、毎度のお願いで恐縮ですが、試し読みだけでも! 無料サンプルを送信して読んで下さいm(_ _)m

 

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かぐや姫を好きになったら

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あらすじ

援助交際をしているようだったり、跳び蹴りをくらわせてくれたりするけれども、僕は彼女のことが好きだった。

褐色の妹とは気が合った。二人乗りの自転車を限界までこぐ。僕の背中にしがみつく妹。僕たちは、血の通った兄妹よりも兄妹みたいだった。

彼女と妹は僕の世界の大切な構成要素だ。その二つが欠けてしまうとき、僕は僕の世界を維持できるのだろうか? 煙の出るチョコレートでも、発酵した麦茶でも、この気持ちを癒せないのだとしたら、想い出や感情も消してしまったほうが幸せなのだろうか?

「ショパンかぁ」と嘆息する詩吟が似合う老紳士

ちょっとしたピアノリサイタルに行った。何曲目かにピアニストが、「次はショパンを弾きます」と言ったら、私の二つほど隣にすわっていた七十くらいの紳士が「うむぅ、ショパン。……ショパンか」と言って頭を抱えてしまった。

紳士は実に日本的な風貌で、クラシック音楽よりは詩吟が似合う感じだった。彼がショパンと言うだけで、なんとなく場違いな印象を受けるのに、ショパンかぁ、と嘆息して頭を抱えてしまう。いったい日本的紳士とショパンとの間で何があったのだろうか?

ショパンはなんとなくチャラい。恋愛的チャラさがショパンで、チャラい中にも愁いが同居する。恋愛的愁いだ。そんな恋愛的チャラさと愁いと一切無縁であるべき日本的紳士が、ショパンとつぶやき頭を抱えたら、想像が膨らんでしまう。

では、私がショパン的かと問われれば、完全に否である。私もショパンとは無縁で、上記のような一辺倒の偏見しか持ち合わせていない。そんな私がショパンを聴いている姿を見て、さて、日本的紳士はどんな想像を膨らませたであろうか。sy