国民国家などは戦争の要請があり誕生したシステムである。それも、戦争の形が騎兵から歩兵に遷ったからである。銃が歩兵を産み歩兵が民主主義を産んだ。民主主義と国民国家の相性は抜群である。
しかしどうであろうか。もはや歩兵の総力戦などということは起こりえるのだろうか。いまや核を始めとするハイテク兵器、超兵器の時代である。鉄砲を担いだ十万の歩兵など、一発の核で殲滅出来る時代である。
もともと軍事と政治は一体である。軍事が変われば政治が変わるのは当然である。それなのに、今の政治システムは、民主主義、国民国家という歩兵時代を前提としての政治システムが残存している。前回の「国」とは何か、の続きではないが、前提が変わっているのに、システムが変わらないので、なにをしたらいいのか分からない状況に陥っている。
たとえば、不平等が問題となるが、なぜ不平等が問題となるのも、国民は平等であるべきという前提が存在するからである。日本人とコンゴ人の所得格差は問題にならないのである。もし、国民国家という概念が消失して、我々が日本人であるという意識が消失すれば、不平等という問題自体が消失する。
荒唐無稽な話に聞こえるかも知れないが、いま社会は国民国家解体の方向に向かっていると思う。その証拠に、野党がどれだけ格差是正を叫んでも、それを本気で支持する者は少ないではないか。
政治家が裏金で叩かれているのは、彼らの所得ではなく、彼らの不正である。
さて、国民国家が解体されたとき、我々に求められるものとは何だろうか。わたしは精神性だと思う。国民国家、民主主義国家は戦争の要請があっての存在であり、戦争の要請とは物質の高度化である。
地球を滅ぼすことが出来る兵器を誕生させた今、当面の間物質の高度化は必要とされない。
ならば求められるのは精神性である。精神的世界観を伴ったあらたな政治システムが誕生するだろう。それを国家と呼べるかどうかははなはだ疑問ではあるが。
では、精神的世界観とはどういうものを指すか。明確な回答はないが、拝金主義、物質信仰、物品信仰はそのひとつの世界観となるのではなかろうか。我々は限りない物欲に向かっている。物質と精神は相反する事柄に聞こえるかも知れないが、物質なき精神は存在せず、精神なき物質もまた存在しないだろう。